2009/4/26 汐生の思い

尊厳をもって扱われる権利

実は今、私は父の最期に立ち会っています。危篤状態ということで実家に戻ってきたのが24日、それから日中はずっと父のそばにつきそっています。

死にゆく父に何度も何度も話しかけながら、父とお別れをしています。突然の死や早すぎる死に直面した家族に比べれば、長い年月をかけてゆっくりゆっくりお別れをすることができた私は幸せなほうなのかもしれません。

病院にいて何にもまして感じるのは、看護師さんの父への対応です。とても優しい人もいればそれほど優しくない人もいます。その中でも父の担当の看護師さんは心優しい人で、一緒にいる家族としては涙が出るほど嬉しく感じます。

呼吸が苦しく体も徐々に冷たくなっている父の、足をさすり手をさすり、気持ちをわかってあげて言葉をかけてあげて。そうした対応の一つひとつが一緒にいる私の心まで癒してくれます。

今日担当してくださったのは、若い男性の看護師さんでした。私の質問に一つひとつ丁寧に答え、足が冷たいだろうとアンカを持ってきてくれて、「もっと早くに気づけばよかったですねえ」と父に頭を下げてくださいました。

この世とあの世の間にいて意識が朦朧としている父に、こんな風に声をかけてもらうことがそばにいる家族にとってどんなに嬉しいことか。そうした思いやりのある態度に、そばにいる私のほうが泣いてしまいました。

「私には賢くて対等な人間として、敬意を持って扱われる権利がある。」(アン・ディクソン『第四の生き方』より)

人間として大切に扱われること。最期まで人間として尊厳をもって接してもらうこと。それが私たちの基本的な権利であることを、アサーティブネスでは高らかに謳っています。

父の姿を見ながら、看護師さんの対応を見ながら、そして父の顔を一目見てお別れをしようと駆けつけてくださった方々のお話を聴きながら、尊厳をもって扱われるという権利を心の中でかみしめていました。

人として生まれ、人として死ぬ。そんな当たりまえのことを、本当に大切にしていきたい。物言わぬ父の手を握りながら、心の中で語りかけ続けながら、これから数日を過ごしたいと思います。