2009/6/18 汐生の思い

人を傷つける道具にしてはいけない

知り合いから恐ろしい話を聞きました

彼女はDV被害者の相談業務を行っているのですが、ここ最近2件ほど、夫が「アサーティブ」という言葉を使っていたというのです。「俺がこんなにアサーティブに伝えているのに、理解しないお前が悪い」と責めるというのです。

自分が"アサーティブに言っている"のだから、受け取らない相手が悪いという一方的な論理は、暴力です。そこにはアサーティブの土台である「誠実・率直・対等・自己責任」のかけらもありません。

アサーティブに伝えるということは、あくまで自分が誠実に対等に相手と向き合った結果の表現の"一つ"であって、伝えること自体が目的になることはありません。ましてや、自分が「自分がこんなにアサーティブになっているんだから、相手も変わるべきだ」ということの理由になることは決してありません。相手の権利を尊重する土台を持たない自己表現は、決して人間の対等な関係を生み出すことはないのです。

アサーティブになるのは、相手からもアサーティブに伝えてもらえる<対話のできる対等な関係>を築いていきたいからです。自分がアサーティブに伝えても相手がアサーティブになっていかないとしたら、アサーティブではないのかもしれない、と謙虚に振り返ることが必要なのです。

アサーティブに伝えることのスキルが一人歩きをすればするほど、このような間違ったアサーティブの解釈が、人間関係を豊かにするどころか相手を一方的に攻撃・操作してしまうことになるということを、今回のお話で痛感しています。アサーティブネスの根底に流れる理念や思想が、スキルの陰に隠れて相手を操作する道具と化してしまっていることは、胸がつぶれるほど悲しく情けないことです。

アメリカでのアサーティブネスの本に、「Get what you want without hurting others」(相手を傷つけないで自分のほしいものを手に入れる)というものがあったり、ヨーロッパでのアサーティブネスが、「相手を操作して思い通りにする会話術」的に解釈されたりしてしまう現実を見ながら、日本では絶対にアサーティブネスの人間尊重と対等性を大切にした形で伝えたいと再度強く思いました。

宣伝となりますが、この秋、アサーティブネスの第一人者アン・ディクソン氏が来日します。彼女は「自分という人間と相手という人間が対等に向き合うことは可能である」ということを25年以上伝え続けています。アン・ディクソンさんの話にぜひ耳を傾けてみてください。人と人との対等な向き合い方のヒントが見えてくると思います。