2010/8/29 汐生の思い
自分の根っこはどこから
考えてみれば私自身は常に、「異文化」の環境に身を置いてきたような気がします。「わからない」という現実を前に、なんとか言葉を尽くして関係を深めて理解しあいたい、そこでアサーティブネスにこだわってきました。
学生時代から障害を持つ人たちとかかわり続け、障害を持つ友人と共に暮らし障害を持つ子どもを育てた体験。デンマークやイギリスに滞在して異文化の中で生きていたこと。開発援助のボランティアでフィリピンのNGOと10年以上かかわり、その後1年間滞在して暮らしたこと。そして今も、日本人ではない家族と共に生きている現状。
まさに「通じない」「わかりあえない」「不協和音」の現実の中で、言葉を使って一つひとつ理解の積み木を重ねて日常を築いていくような取り組み。常に自分自身を"異文化"の場に置き、苦労しながらもその苦労を楽しんでいるような気がします。
なぜこのようなことを性懲りもなく続けているのだろうかと、我ながら呆れることもありますが、"性分"のようなものでやめることができません。
以前、なぜ自分がこれほどまでにこだわるのか過去の理由を探ってみたことがあります。どうやら「切り捨ててきたもの」を「取り戻したい」という無意識の希望のようなのです。
私は両親が共に働いていた当時の"カギっ子"でしたので、学校が終わっても"カギっ子教室"で友達と遊んでいました。自分を出すのが苦手でシャイだった私と一番気があったのは、軽い知的障害を持つSちゃんと、脳性まひのN君でした。その二人と仲良しだったのに、小学校3年生になったときに突然、SちゃんもN君も「特別学級」に入れられてしまいました。
その後私は、地域の公立の中学校、高校をエリート生徒として進み、地方の学校ではごく少数の"東京組"になりました。"効率"を是とし、「標準語(東京弁)」をしゃべり、"洗練された"文化をまとい、子ども時代の環境を切り捨てて外の世界へ飛び出しました。同時に私は、国立大学の数少ない女子学生の中で、更に数少ない「下宿組」、しかも「お風呂のないアパート暮らし」という身分でしたので、東京の友人たちの中で常に「東京人のふりをした地方人」である自分を感じながら過ごしていたような気がします。
異文化のものに係りたいという強い願望は、そうした子ども時代からの体験があるのかもしれません。自分のアイデンティティ(何者か)という問いも、異文化理解への強い希求も、これまでの体験の積み重ねの結果なのでしょうね。アサーティブもそうした自分のこだわりの延長上であると思うのです。
なぜアサーティブネスなのか。その根っこの部分を問い直してみると面白い発見があるかもしれません。