2011/5/6 汐生の思い

「共感する力」をつける

3月11日から2か月。震災地との物理的距離や、実際にボランティアに行ったか、知り合いがいるかどうかで、被災地との「温度差」がどうしようもなく生まれている時期にあるような気がします。「一つになろう」「一緒にがんばろう」というかけ声は少し小さくなって、今は一人ひとりの「ケア」や「回復」のあり方にシフトしつつあるのかもしれません。

「一緒に」「がんばろう」というメッセージで自分を鼓舞してきたけれど、震災から2か月たって、少しずつ疲れが出てきているのもまた事実のようです。私自身も4月後半から体調を壊し、気持ちがずっと落ち込んでおりました。ゴールデンウィークでお休みをいただいて、やっと回復してきたところです。

そんな中で、考え続けているのが「共感する」ということです。

震災後の今、私たちが「思いを寄せる」「心がそばにいる」という共感の力を持つことが、日本全体が回復していくプロセスとして、とても重要な要素となっている気がします。

とはいえ、「自分は現地に行っていないからわからない」、「現地を知らないあなたにはわからない」ということで、現地との距離があたかも共感の距離であるかのようなつぶやきも、所々で聞こえてきます。

しかし、共感は「被災地の人たち」だけに感じるものではありません。「弱者」とか「当事者」と呼ばれる人たちは、私たちの周りに当たり前に存在しています。隣に座っている人、一緒に仕事をしている同僚も、実は故郷を失ったり、大切な人を亡くしたということで、心の中で涙を流しているかもしれないのです。

そうした「日常に私たちの周りにいる当事者」に意識的にかかわっていくことが、私たちの「共感する力」をつけていくことになるように思います。自分と違う「他者」の心の痛みや、怒りや、喜びに思いをはせて、心を共に震わせる力を持つ。それを日常の中で続けていくことが、震災地に直接関係がなくても日々の中でもできることではないでしょうか。

共感する、ということは、決して相手の気持ちを「わかる」ことではありません。「わかろうと努力し続けること」の中にこそ、共感は生まれるのだと思います。津波で家族を失った方々の気持ちや、すべてを奪われたという方の気持ちを、私が「わかる」ことはないでしょう。「わかる」と思えば思うほど、「実はわからない」という自分の無力感や距離感に直面することになるだけです。

そうではなくて、「わかろうと努力し続ける」こと。わかりたいと思って、わからないけれども自分の想像力をフル回転しながら、努力し続けること。そして同時に、自分が生きる現場での「私という当事者」も大事にすること。

心の力をつける。私たちの社会の「共感する力」や「他者への寛容さ」をはぐくんでいくのではないかと、思えてなりません。