2011/8/16 汐生の思い

社会的責任がついてくる

北川達夫さんの『不都合な相手と話す技術』(東洋経済新報社)を読み終え、グローバルな視点にたってのタフな「対話」の意味を深く考えさせられました。

「対話」とは、「わからないこと」を前提とした「戦わないコミュニケーション」であると北川さんは何度もくり返します。まさに、「闘い(fight)」でも「逃げる(Flight)」でもない、自分も相手も尊重して対話を継続していくというアサーティブのスタンスと、とても共通点の多いものでした。

その中でも、一つ大変心に突き刺さったものがありました。

それは、学校教育の現場で「意見を言わせる」ということと「本心を問う」ことの違いを明確にするというくだりについてでした。少し長いですがここに引用したいと思います。

-------------------
日本的発想が「意見を言わせる教育」において危険な鈍感力を生み出している。内心と言動を切り離して考えることができないためなのか、平気で子供たちの本心を聞き出そうとしてしまうのである。先述の落書き問題であれば、「あなただったら学校の壁に落書きをしますか?」、安楽死問題であれば「あなただったら自分の両親を安楽死させますか?」、臓器移植問題であれば「あなただったら臓器提供しますか?」。つまり一定の条件や情報の下で立場を明確にするだけではなく、個人的な意見決定をするところまで求めてしまうのである。

これは思想や信条にかかわる「内心の開示」を求めるものであり、先生のそれを聞く権利もなければ、子どもにそれに答える義務もない。はっきり言って人権侵害なのだが、まじめで熱心な先生ほど鈍感力を発揮するあたりが恐ろしい。
-------------------

アサーティブトレーニングではロールプレイを行いますが、練習の場面でこの点は大変重要な視点になる部分です。

アサーティブは、「言いたいことを言う」のではなく、「本当に伝えたいことを、相手に伝わるように話す」という努力をして話します。自分が「本当はこれを伝えたい」「これについて話し合いたい」ということを、誠心誠意、相手に伝わる適切な言葉にするのです。

しかしこれは、「本心を開示すること」では、必ずしもありません。どんな本音があったとしても、言葉にした段階で社会的責任が生じます。自分の発する言葉を丁寧に選びながら、相手を一方的に責めたり傷つけたり、相手の表現の権利を侵害することにならないように、言葉にしていくのです。

したがって、相手に向き合おうとしたときにドロドロの気持ちが湧き上がってきたとしても、あるいは、これまでの傷ついた感情をぶつけたくなったとしても、言葉として口から出すときには、相手の権利を侵害しない範囲において、将来についての建設的な提案としていく必要があるのです。

自分と相手の内心の思想信条の自由を守りながらも、社会的に発せられる言葉にはきちんと責任を持つ。そのことを忘れないでいたいと思いました。