2013/12/27 汐生の思い
「伝え手」の責任を意識していく時代に
「アサーティブ」という言葉は、もともと英語のAssertiveから来ています。アサーティブの概念は、多文化・多民族・多様な社会の中で、価値観の異なる人々がお互いを尊重しながら共存していくために必要不可欠な考え方として存在してきました。
アサーティブが英語圏の文化に由来しているため、日本語文化にはそぐわない部分もたくさんあります。長年アサーティブを日本人の方々にお伝えしてきましたが、私たちが、「自分と異なる"他者"と向き合って、価値観の違いを乗り越えて対話する」という姿勢を本気で持つには、まだまだ時間がかかるように思います。相手と向き合った時に、心のどこかで、「はっきり言うべきではない」「察するべき」という気持ちがあるように思うのです。
「日本文化」の特徴であると考えてもいいのですが、私は日本語という言葉の特性もかなり影響しているように感じます。言葉は私たちのモノの見方を左右する力があり、日本語の特性が、アサーティブになることを難しくさせているんじゃないかと。
日本語文化は「ハイコンテキスト文化」と言われます。背景の知識や体験、価値観の共有が高いため、あいまいな表現が好まれ、言葉の裏の意味やニュアンス、気持ちなどを察することが期待されます。
従って日本語では「伝え手」よりも「聴き手」の能力の高さを期待されます。言わなくても状況を察する力、相手の気持ちをくみ取る力、背景を理解する力などが、対人関係の中でも非常に求められます。
対極にある欧米言語の文化は、「ローコンテキスト文化」です。背景の知識や価値観の共有はあまりなく、あくまで「ことば」による説明やロジックが重視されます。そのため、相手に対してわかりやすく、明確に、はっきりと、具体的にコミュニケーションを取っていく責任があるのは、話し手の側なのです。
その意味においてアサーティブな表現は、ローコンテキスト文化の表現です。多様な価値観の人たちが、「通じない」ことを前提に、面と向かって対話をするときの、伝え手の側のコミュニケーションと言えるでしょう。
私自身、日常生活で英語を使うことが頻繁にありますが、そこでも表現の回りくどさやあいまいさを指摘されます。どんなにアサーティブに言っているつもりでも、英語になると通じない場面がある。これについてはきっと、訓練し続けていく必要があるのでしょうね。
これまで私たちも、ハイコンテキストを前提として、アサーティブに振る舞えばすんでいた部分がありました。しかしこれから、社会が大きく変わっていく中で、頭の中をローコンテキストにしていく必要があるように思います。相手とは基本的に「通じないものだ」という前提のもと、わかりやすく具体的に、粘り強くコミュニケーションを取っていく。
コミュニケーションの「伝える側」としての責任を、もっと意識的に取っていく。
それが必要となる時代は、もう目の前です。私たち一人ひとりが、言語や文化を言い訳としないで、変わっていくしかない。覚悟を決め、腹をすえて、新しい時代の変化に向き合っていきましょう。
今年もアサーティブジャパンを応援していただき、本当に感謝しています。
どうぞ来年もよろしくお願いいたします。