2024/4/25 汐生の思い
私たちは、なぜアサーティブであろうとするのか
NPO法人という冠(かんむり)をつけ、社会を変えるんだという意気込みを持って始めた法人も、今年で20年になります。法人を始めた当初の思いに変わりはありませんが、20年たって“意気込み”や“勢い”はトーンダウンした気がします。社会はそれほど簡単には変わらない、焦らず行こうと思えるようになったことと、20年前からは想像もしなかった事態が生じて、その対応に追われていたことがあります。
アサーティブというスキルが以前に増して求められている今、私自身はアサーティブの本質的な意味は何だろうということを考え続けている気がします。
20年前、「敵」はとてもわかりやすく立ち現れていました。
私たちは“弱い立場”であり、相手は“強い立場”、理不尽な相手、権限や権力を持つ側。だから、こちらの正義を正々堂々と主張さえすればよかったのです。誰もが持つ自己表現の権利を発動すればよかった。自分を卑下することなくはっきりと主張する障害を持つ女性たちの活動から、社会は動くのだという、確かな手ごたえももらいました。アサーティブとは、とても楽しいものでした。自分が変わり周囲が変わることを目の当たりにし、たくさんの勇気をいただいたのを覚えています。
それから時代は大きく変わり、わかりやすい敵はいなくなりました。あるとすると、同調圧力、ハラスメントの恐れ、相手を傷つけ関係を壊してしまうのではという不安。そんな見えない存在におびえながら、恐る恐る手探りで言葉を発しているのが多くの人の現状ではないでしょうか。
向き合う相手は、私たち自身の中にある“不安”や“恐れ”です。相手が嫌な思いをしたら、関係自体が終わってしまう。であれば、いっそ表面的なコミュニケーションでよいではないか、という声も聞こえてきそうです。
そんな中でアサーティブ=自己主張とは、どうすることなのでしょう。何をどう話すことが、アサーティブ、になるのでしょうか。
最近とても印象深い体験をしました。
ある企業。社員は20代から30代が中心。皆、とても明るく元気で、訪問した時も挨拶と笑顔がここかしこに見られる素晴らしい会社です。研修では笑い声が絶えず、誰かが発言するたびに自然と拍手が起こります。
でも、ロールプレイをする中で、見えてきたことがありました。
肝心なことを言えていないのです。
表面的なことは明るく話せるし、楽しく過ごすことができるのですが、肝心なことが言えない、言わない、言おうとしない。
業務上で起こる問題について、本当はどう思っているのか、どう感じているのか、どうしたいのか。それを言葉にすることをものすごく恐れている。これを言ったらどうなるか、という不安と恐れから、コミュニケーションが上滑りする。笑顔の裏で実は、一人ひとりがとても孤立して、不安を抱えている。そんな課題が見えてきました。
肝心なことを話すためには、アサーティブのスキル以前に、「伝えても大丈夫」という自信が必要です。自信とは、気まずい思いをしても、自分は大丈夫という確信。対立しても、いずれは乗り越えていけるという希望。傷ついても、いつかは回復するという強さ、のことです。
仲が良くても、肝心なことを話せていないことで、もしかするととても大事なものを失っているんじゃないか。それを直視することが必要なのかもしれません。
だとすると、アサーティブは、どういうことなのでしょう。
私自身は、三つのことを意識しようと思います。
一つは、「自分自身に軸を置く」ことです。
相手がどうなのか、相手がどう思うのか、を中心に置くのは「相手軸」です。「相手軸」を立てていると、相手の状況に左右され、ずっと不安の中に身を置くことになる。
そうではなくて、アサーティブは、自分の中に軸を置きます。
私は何を感じているのか。
私は何を望むのか。
何を実現したいのか。
感じる力、考える力、そして言葉にする力を持つ。自分の軸をぶれずに持っておくことで、私たちは本当の意味で、自分自身の人生を生きることができるのではないかと思うのです。
アサーティブとは、自分自身の感情と考えを、言葉にする力です。相手を攻撃するのでも言葉を飲み込むのでもなく、「私は何を感じ、何を大切にしている人なのか」をシンプルに表現する力。それは自分が自分の中に軸を立てるところから始まる。それが一つ目です。
二つ目は、コミュニケーションの“先に”、何を得たいのかを描いておくことです。コミュニケーションは目的ではありません。手段です。その手段をもって私たちは、何を実現したいのでしょう。
メンバーが成長できるチーム、お互いの違いを尊重しあえる職場、心理的安全性の高い組織、それぞれを大切にしあえる家族…。様々にあるはずです。
コミュニケーションは、「点」にすぎません。その「点」をつなげた先は、どこに行きつくのでしょうか。私たちはなぜ、言いづらいこと、対立を予測できることも、あえて話し合うというプロセスを選ぶのでしょうか。それはその“先の、”私たち自身が本当に手に入れたい人間関係や世界”があるからではないでしょうか。
点を結んだ先に何があるのか。20年目の私が思うのは、「その先に希望があるから」です。私たちがあきらめないで対話を続けることは、きっと、誰もが価値ある存在として尊重される社会につながると信じているから。だからやっぱり、アサーティブで行こうと思うのです。
そして三つ目に、希望に向かう道を歩くのは、自分一人ではないことを覚えておくことです。
コミュニケーションが取れないのは自分のせい、“自己責任だ”と考えて、悩む人が多くいます。確かに自分の力不足もあるでしょう。でも同時に、相手の問題もあるし、私たちが置かれている環境や状況の問題もあります。何か異議を唱えるとあっというまにバッシングされる今の社会で、攻撃されるから黙っていようと考えてしまうことは、私自身もあります。
そうした現実と向き合うには、やっぱり一人では無理です。社会という形の見えない相手に、一人で立ち向かえるほど私たちは強くありません。朝ドラ『虎に翼』(2024年4月スタート)を観ていると、ほんとうにそれは実感します。勇気をもって言葉にするためには、一人では本当に難しいからです。私たちは傷つき凹むこともある。そこで「大丈夫、信じているから一緒に行こう」と言ってくれる人が一人でもいれば、私たちは再び歩いていけるからです。
アサーティブという道具を、”敵”を作るためではなく、“味方”を作るために使っていきましょう。攻撃的でも受身的でもないコミュニケーションの道具を持つことで、ほんとうに信頼でき支えあえる人間関係を日常の中で築いていくのです。
希望に向かう道は1本ではありません。でも確実に存在していますし、そこを歩いている人は大勢いる。それを忘れないでいたいと思います。
20年目の今年は、原点に立ち戻ることと、目指す先を確認する、そして一人ではないことを実感する。そんな節目の時間になりそうです。ぜひ皆さんとも一緒に、今年はそんな話をしていければと思います。どうぞこれからも、よろしくお願いいたします!