研修の中で出てくる個人のストーリーには、どんなアサーティブの理論よりも「対等性」に関する真実が含まれていることがあります。
アサーティブの土台にある対等性とは、別の言葉で言えば、自分と相手の人間の尊厳を心から信じて相手と関わること、になります。
先日もある研修中、「今も忘れられないほめ言葉」というテーマで、ある参加者の女性が話をしてくれました。
それは、彼女が9歳の時のこと。
それまで彼女は、自分に自信がなくて自己主張ができず、友だちにもあまり話しかけることができなかったそうです。気の強い友だちにいじわるをされたり、悪口を言われたりで、いつも泣いてばかりでした。周りの先生や家族からは、「大丈夫、大丈夫」と慰められ、「いいからね、無視しておけば。かわいそうに」と、守られていたのだそうです。
ところが、3年生の担任の先生は違いました。
彼女に対して、「いじわるする人には、ちゃんと自分で意見を言わなくちゃダメよ」と、厳しく接しました。最初のうち、彼女はその先生のことが大嫌いでした。
でもある日、その先生の言葉に従って、いじわるした友だちに、自分の気持ちをはっきりと伝えました。「それを知った先生は、本当に、本当に喜んでくれて。教室でもみんなの前でほめてくれたし、母にまで電話をして、私のことをほめてくれたんです」。
それ以降、彼女は変わりました。自分に自信をもって主張してもよい、自分はOKなのだと思えるようになり、何かあった時は本人とちゃんと向き合って話すことができるようになったそうです。
大丈夫、大丈夫、と慰めてあげることは、必ずしも優しさではなく、むしろ相手を無力にしている可能性がある。そうではなく、例え厳しい言葉であったとしても、相手の持つ力を信じて、まっすぐに対等に関わることの方が、本当の優しさになるということを再認識したストーリーでした。
アサーティブの「対等」には、相手を対等な人間として見ること、尊厳ある人間として関わること、という意味があります。にもかかわらず、何かにつまずいて「できない」と苦しんでいる相手に対して、私たちは「優しさ」や「思いやり」という善意でもって、結果として相手を無力な人間に仕立て上げていることがあるように思います。相手を傷つけないように優しい言葉をかけ、手を差し伸べるということは、裏を返せば、相手は簡単に傷ついてしまう「弱い」人間であると、対等ではなく接していることになるのです。
私たちの偏った目が、相手との関係を偏ったものにしてしまう。相手を「困った人」「かわいそうな人」「傷つきやすい人」として見てしまう、私たちの見方そのものが、もしかすると問題かもしれないことに、もっと自覚的であるべきなのかもしれません。
相手も変わる可能性があること。立ち直る力があること。他者と向き合う力があること。そうした相手の力を心の底から信じることが、本当の意味でのアサーティブの対等性なのですね。
少し涙ぐんで話してくれた彼女に、ちょっぴりもらい泣きしながら、人間の持つ力について希望を感じたひと時でした。